「主人公の女性がいずれ性被害を受ける」とわかっていながら、彼女のほのぼのとした日常を読み進めるのは、気が重かった。だがこうした描写こそが、この小説の最大の効用と考える。こちらでつぶやいた通りだ。
さて、高偏差値大学生による性暴力は、同じく2016年に慶応大学生による集団性的暴行事件(私のコメントはこちら)、今年に入ってからも滋賀医科大学生による集団性的暴行事件が発生するなど、収まる気配がない。
エリート予備軍の学生というのは社会を動かす立場になり得るだけに、「人間の尊厳」について理解を深めておくことが求められるはずだ。さもなければ、貧困や虐待、障がい、犯罪被害の当事者など、「自分とは違う」人々の気持ちをすくい上げ、それに寄り添う社会を作り上げることはできない。
しかし、一連の事件で加害学生たちは被害者を、自分の嗜虐性を満たす玩具(モノ)として扱っている。 尊厳とは真逆の行為である。
我々の社会は、学生たちに高偏差値をとらせるための教育はしても、尊厳、特に「性の尊厳」についての教育は乏しい。これが、一連の事件の最大の要因ではないか(本書のトークイベントで東大関係者も、セクハラ対策は全くできていなかったと認めている)。
では、「性の尊厳」教育とはどのようなものか。キーワードは、「性的同意」と「メディア・リテラシー(メディアの読み解き能力)」である。
本書で私が気になったのは、被害女性に対する世間のバッシングの凄まじさだった。
「相手の家にのこのこついていった女が悪い」という意見が圧倒的。実際に事件当時も、そのような批判がネットにあふれかえったという。
「家の中」で被害が発生したとき、この種のバッシングは起きやすい。上述の滋賀医大生による事件でも、やはり同様の批判がネットに書き込まれた。
「女性が家に来たら、性行為に同意している」というメッセージが、いかに信じ込まれているかの証である。このメッセージには、「性行為をするにあたって、相手の同意を言葉で丁寧に確認しましょう」との配慮は全く込められていない。
こうしたメッセージを30年以上前から流布してきたのが、AVや雑誌、ドラマ、漫画などのメディアだ。最近は、ネット掲示板やSNSなどの「新しいメディア」に受け継がれている。
現実の女性にとって、相手の家へ行くことは必ずしも性行為への了解を意味しない。
彼女が同意したのは「家へ行く」ことだけであって、その先の「性行為をする」ことではないからだ。
そもそも多くの男性は家に誘う段階で、性的目的を隠し、「飲みなおすだけ」「DVDを見るだけ」などと嘘をつく。この手法も、メディアがかねて指南するものだ。
嘘をついた加害者よりも、それを信じた被害者が責められるのは甚だおかしい。
「家へ行く」こと自体が、被害者の意に反している場合もある。「ノー」と言っているのにタクシーに押し込まれる、手やバッグを引っ張られる、1人暮らしの家に強引に上がり込まれる……。
加害者には、被害者のノーを尊重しようとする気持ちも、同意をとろうとする気持ちも微塵もない(滋賀医大生による事件でも、被害者は加害者の部屋へ行くよう、エレベーター内で脅迫されたと報じられている)。
「女性のノーはポーズだから軽んじていい」というのも、やはりメディアが広めてきたメッセージなのだ。
このように、性的同意をめぐるメディアの性情報には様々な危うい誤解がある。それらを鵜呑みにせず、性の尊厳を重んじられる子どもや若者を育てるために、メディアの性情報を読み解くリテラシー教育、すなわち「性情報リテラシー」教育が必要だ。
特に、偏差値教育に偏りがちで、性に関して傲慢になりがちなエリート予備軍の学生に対してこそ、性教育に「尊厳」の観点を導入することを求めたい。
【参考】「不同意性交」を防ぐ性教育とは? ~メディアの性情報対策としてのリテラシー育成(総合解説)~
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