2023年1月18日水曜日

不機嫌なオンナたち【メディアの中の女と男①】

「夫以外の男とのセックスは、どうしてこんなに楽しいのだろうか」

林真理子氏の人気小説『不機嫌な果実』の映画化(1997年)に際してのキャッチコピーである。夫以外の男と……。そりゃあ楽しいだろう。多くの女性はニヤリとしたに違いない。

ところがこのコピーを見て、ニヤリどころかカンカンになってしまった人たちがいる。JR東日本のおエライ男性方だ。彼らはあろうことか、このコピーが書かれた映画宣伝用広告を社内吊りにすることを、拒絶したという。他の私鉄や地下鉄は問題なく受け入れているのに、である。JR東日本が主張する理由は「公共の倫理に反するから」。コウキョウノリンリ?

いったいJR東日本の「倫理」を測るものさしは何なのだろうか。私は別に、夫以外の男と寝ることが非常に道徳的に正しいと言いたいのではない。だが、JRの車内で日頃吊られている様々な広告の方が、この映画広告よりも倫理的に高いレベルに位置するとは、どうしても思えないのである。

男性のプライドを脅かす力に反応

山手線に乗って車内を見渡してみよう。男性コミック誌の広告では、水着姿の若い女性がポスターいっぱいに寝そべって、これでもかと肌を露出している。それはそれはド迫力だ。男友達と一緒のときにこんな吊り広告の側に立ってしまったら、私はどんな顔をすればよいのだろう。自分が子どもを持ったとしても(男の子であろうと女の子であろうと)、絶対にこんな広告を目に触れさせたくない。視覚に直接訴えてくる刺激的なグラビア広告の方が、一行のコピーよりも倫理にかなっているというのだろうか。

グラビアだけではない。男性週刊誌広告の見出しも、乗客の目を引くためにますます過激さを競い合っている。「辱められて歓ぶ女子高生」「人妻と白昼の××」……枚挙にいとまがない。中には犯罪スレスレのような誘い文句を並べたてたものもある。それでもこれらのコピー(見出し)よりも、「妻たちの本音」をちょっとあらわにしてみた一文の方が、非倫理的だというのか。

男性側のメディアが発信してきた”女性の性をもてあそぶメッセージ”はさんざん野放しにしておきながら、自分たち男性のプライドを脅かすような力には神経質に反応する。そして権力をもってこれを抑えつけようとする。JR東日本の、底の浅い自分勝手な”倫理観”を目の当たりにした思いだ。

『不機嫌な果実』と『失楽園』にみるダブルスタンダード

しかしながら果たして、このような偏った倫理観は、JR東日本に特有のものなのであろうか。『不機嫌な果実』の映画化より数ヵ月前に、『失楽園』が大ヒットとなった。日本中に失楽園旋風が吹き荒れ、雑誌では「男のための”失楽園”指南」などという特集が組まれたりもした(もちろん中吊り広告の見出しにも登場)。中年の男性が妻以外の女性と恋に落ちる話だが、なぜかこの場合だと、男性のしていることは”純愛”であるとして世間の支持を得るのである。

同じようなことを『不機嫌な果実』では女性主体で描いているわけだが、これだと”不倫”として扱われてしまう。女性に限り、配偶者以外の人間と関係を持つのは許されないこと――これはすなわち、日本が古く儒教文化から引きずってきた女への貞操観念、男に仕える役割の押し付けに他ならない。

今回のJR東日本による拒絶騒動は、日本社会に依然としてこのような女性に対するカビ臭い価値観が残っていることを、はからずも露呈する結果となってしまったのではないだろうか。

夫たちが気づくべきこと

「自分は女遊びはするが、女房が浮気するのは許せない」などと思い込んでいる男性は、なぜいま『不機嫌な果実』がこんなにも女性の間で人気を呼んでいるのか、考えてみるとよい。妻が自分のもとを去るか否かは広告の影響なんかではなく、我が身の魅力によるということに、早く気づかなければならない。もっとも、たった一行のコピーにビクビクするような夫君は、いまさら気づいたって遅いかも。

(渡辺真由子、1997)


*資料を整理していたら、25年前に書いたメディア批評が複数出てきた。オーストラリアの大学で女性学や発達心理学を履修して帰国後、とある事情によりテレビ局向けに送ったもの。今後、随時掲載する。それにしても四半世紀前から同じことを言っとるばい。


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2023年1月10日火曜日

40代からの茶道と禅語

 

明けましておめでとうございます。
今年もご一緒に、「人権尊重社会」の構築に取り組んでまいりましょう。

さて、このブログを愛読くださっているあなたには申し訳ないが、昨秋以降はほとんど更新する時間をとれなかった。
というのも、私が4年前から通っている茶道教室では、新年の初釜で、その年の干支の者が点前を務めることになっている。

何を隠そうウサギ年の私は、見事に両耳をつかまれてしまった。そこから、猛特訓の日々を過ごしていたのである。

思い返せば茶道と出会ったのは2018年、43歳の春。テレビ局を辞めて留学したカナダから帰国し、ジャーナリスト・研究者として活動を始め、10年が過ぎた頃であった。

一通り仕事でやりたい事をやり、言いたい事を言って一区切りつき、早くもプチ・リタイアの心境に入っていた。「何か新しいことに手を付けてみたい」と考えたとき、ふと頭に浮かんだのが茶道だったのだ。こちらで述べたように、茶会に招かれる心構え、という理由もある。

茶道をはじめ様々な芸事を愛でていた、美術館長の祖父のDNAがうずいたのかもしれない(その割に孫はガサツ)。 


人生経験をある程度積んだ40代で、茶道を始める利点とは何か。
私の場合、「禅語」の深さが味わえるようになったことである。

禅の思想を短い言葉に凝縮した禅語は、茶道において、茶席の掛け軸や茶杓の銘で使われている。稽古でも、自分が点前をするときは茶道具の銘を考えておかねばならない。 おかげで、禅語辞典と首っ引きで、あの語にするかこの語にするかと頭をひねるようになった。

禅の言葉は、基本的にポジティブ。
広い心で、万物を愛する。悩みや苦しみにも意味がある。誰もがありのままでいい。

……ほら、大人のあなた、染みるでしょう。

最近私が気に入ったのは「柔軟心(にゅうなんしん)」という禅語。
文字通り、「柔らかい心で向き合う」という意味。

人間は一人ひとり、生きてきた背景が違えば価値観も違う。
自分は正しいと思うことでも、相手には受け入れがたいことかもしれない。
正論を押し付けるのではなく、まずはしなやかな心で、相手の思いを受け止めよう、と。

これ、「論破」ブームのいまこそ、自戒すべき言葉ではないだろうか。
大手出版社の編集者までもが「あの著者をどう論破するか」と話すのを聞いて、危うさを感じたものよ。本は著者のものじゃないんですかねえ……おっと余談。

そうそう、肝心の初釜点前はどうだったかって?
途中ハラハラする部分もあったが、なんとかやりおおせました。
こういうのは場数を踏むことが大事だと思うので、また機会があれば点ててみたいどす。
今年、お茶席を設けたいという方は、お声かけくださいまし(気軽なお席でお願いします)。


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