2015年1月26日月曜日

メディアの「マッチョ文化」(新聞寄稿)



「あの女性キャスターはミニスカート姿で登場するだろうか」

今春のテレビ局の番組改編時、某局の夜のニュース番組に新たに出演することになった女性キャスター。脚線美で知られ、どのぐらい際どいスカート丈を披露するかが、事前に週刊誌等で随分と騒がれた。「なぜ日本の女性キャスターは服装やボディサイズばかりが注目されるの?彼女たちの仕事能力とは関係ないでしょう」と、豪州から来日した知人が呆れていた。

女性キャスターが色眼鏡で見られがちなのは、報道機関の内部事情に関係がある。英国の公共放送BBCが報道番組に初めて女性キャスターを起用したのは、1960年のこと。それまで「女性がニュースを読むと、威厳も信ぴょう性も伝えられない」と考えられ、報道機関は男性が支配し、男性優位の規範と価値観、伝統によって形作られてきた。女性が閉め出されたこの体制は、報道の「マッチョ文化」と呼ばれる。

日本ではさらに遅れること約20年、1980年前後から、ようやく女性もニュースを読むようになった。だが報道機関のマッチョ文化は、依然として残っていると思われる。

例えば、夜の報道番組。北米ではメインキャスターとして年配の女性が起用されるケースも多いが、日本では若い女性と年配男性を組ませるのが定番だ。番組によっては、女性は原稿を読むだけで、ほとんどニュースにコメントしない。しかも顔ぶれはコロコロ変わり、「鮮度」が重視される感がある。

服装も男性キャスターは背広姿、女性キャスターは二の腕を出してミニスカート。視聴率稼ぎのために若い女を使って色気を出させ、大事なところは男に締めさせておけばいい、との局側の魂胆が見えるではないか。


「女の事件簿」、「美人女子大生殺害」、「レズ殺人」……。ニュースに女性が絡んだ途端、報道番組の見出しは、よりセンセーショナルなものになる。「客観性」の名のもとに行なわれる報道に、女性への偏見が透けて見える。ニュースの中の女性は、美人か、スタイルがいいか、といった外見や、男性との関係性(「愛人」など)に基づいて語られる。英国人英語講師が殺害された事件のテレビ報道では、レポーターが生徒に「その先生、きれいだった?」と聞き回っていた。

また、「マッチョ文化」の視点が如実に現れるニュースの典型に「海開き」がある。テレビも新聞も判を押したように、水着姿の女性たちが波と戯れる様子を報じてきた。近年はこれが女性を「性的対象」として描いていると批判され、代わりに子どもを被写体にする大手メディアも出てきたが、いまだ女性の水着姿を無自覚に扱うメディアは残る。

「ワーク・ライフ・バランス」も最近よく耳にする言葉。これを解説する某全国紙の記事を読んで驚いた。仕事と生活を両立する環境づくりが、「働く女性が子育てもしやすくするために重要」だというのだ。働く「男性」が子育てをする可能性など、この執筆者は考えもしないのだろう。

メディアでマッチョ文化が幅を利かせる背景には、作り手の性別の極端な偏りがある。新聞記者総数に占める女性の割合はわずか16.7%。原稿の方向性を決めるデスク、ニュースの最終的な取捨選択をする編集長、といった権限を持つポストだと、さらに男性の独壇場となる。民放で管理職に就く女性は12.3%。NHKに至っては管理職の女性は4.7%に過ぎない(男女共同参画白書、2013年)。


ちなみに私がメディアの世界に入って非常に意外だったのは、テレビや新聞の男性記者の多くが、ストレス解消を口実に性風俗へと通う実態を目の当たりにしたことだ。そしてスッキリした顔で彼らは、教育だの人権だのを語るのであった。

 報道機関のマッチョ文化は、男性優位社会をイデオロギーとして再生産する。一般企業の管理職に女性が少ないのも問題だが、社会を先導するメディアにはなおさら、作り手における男女共同参画が求められよう。

(熊本日日新聞『論壇』2013年6月16日掲載分に加筆) 


【参考文献】

Book3 『オトナのメディア・リテラシー』
         (リベルタ出版)  


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